主観性の科学
(11/20/86)目標の科学が必要
近代科学の思考法は、主観の立場で客観世界を操作あるいは観測する。ある目標に向かって客観世界を変更する人類の能力は飛躍的に増した。しかし、目標そのものをどう設定すればよいかについては万人に納得のいく理論があるわけでなく、しばしば紛争の原因となっている。人々は自分自身の目標についての意識的な理解に欠けている。意識的な目標設定はしばしば非現実的になる。人々は他人の考えに操られるのを恐れ、また逆に他人に盲従したりする。
[10/31/93]「臨床の知」(中村雄二郎)はこのあたりの参考書として使える。たとえば、「技術は世界を挑発し、暴く」というハイデッガーの言い方が紹介されている。また、万人に納得のいく目標理論というには中村によれば、科学の普遍性にとらわれた見方で、科学に対抗する思考はむしろ個別的な状況に重きをおくことになるのかもしれない。目標設定が恣意的にみえるのは、目標そのもののせいではなく、科学的方法の弱点がそこに集約されているということなのか。必要なのは目標の科学なのではなく、目的と手段という2分法をくずしたアフォリズム的思考、心得書のようなものと考えられる。たとえば、何をするか、ではなく何であるか、という方に焦点を移すとか。
[11/3/93]何故人々は欲望をあっさり肯定するのか。客体世界については現状を変更することに何の抵抗も感じない人々が、自分の欲望については、当然のもの、変わりえないものとして、他のオプションを考えようともしない。多くの人々はむしろ自分の欲望を神聖なものとみており、何故自分がそういう欲望を持つにいたったかを分析されそうになると、人間としての基本的な権利を侵害されたかのように憤慨する。アメリカでは夢を実現するということが、特に神聖なこととして称揚される。しかしその夢自体に疑いの目を向けることは唾棄すべきこととされるのである。つまり、近代では昔の神意や社会の意志のかわりに個人の欲望を神聖視することで、目標と手段に二分割された世界のうちの、不安定な半分を強化しようとしているのだ。人々は自分の夢を頑固に持ち続ける個人を尊敬する。世界の崩壊は手段の不適切さからくるのではなく、目標の不安定さからくるというのが一般の懸念になっている。[11/11/93]
(11/21/86)
「法」という言葉には二様の意味がある。自然法則と人間が守るべき規則(法律)である。前者は発見されるものであり、後者は人間が努力して守っているものである。このことは、手段の世界では我々は科学を持っているが、目的・動機の世界では迷信と経験論にとらえられたままであることを示している。目的・動機の世界が理解しにくいのは我々がそれらと自分とを同一視しがちなために、科学的な洞察を可能にするのに必要な距離をとりにくいためである。
[11/1/93]「法則論」のファイルでは、「法則は人を自由にし、法律は人を縛り付ける」という言い方を試みている。こういう見方の淵源はデカルトだろう。主体は客体世界の法則からは完全に自由だとするのだから。主体は客体世界の法則を発見することにより、客体世界を自由に操作できるようになるが、主体自身はその法則には影響されない。ところで、法律というのはまさに主体が従うべき規範であって、それが主体を縛り付けるというのは当然のことである。近代科学的世界観では、客体は自然法則でとらえ、主体は法律や道徳でとらえようとする。しかし、前者はこの世界観の本質的な要素だからいいとしても、後者の方はこの世界観が捨象した部分だから、はなはだとらえにくい。主体という概念は近代科学的世界観の矛盾がすべてほうり込まれたブラックボックスであり、科学的な探求の光線はこの領域ではただ吸い込まれるだけで何物をも照射しないのである。
(11/22/86)客観思考の徹底か主観思考の拡大か
客観と主観の違いは二分的なものというよりも連続的な変化によってつながれている。自分の手は10m離れた石ころよりも主観に近い。もちろんどんなものでも客観的にみることはできるし、また主観的にみることもできる。ただ、石ころを主観的に感じることはそれを客観的にみるよりもむずかしいし、自分の価値観を客観的にみる、ということはきわめて困難である。
近代科学的思考法は客観化しやすい極である質点の研究からはじまり、今は生物というかなり主観として感じやすいところまでがその勢力範囲に入ってきた。主観の科学とは、その傾向をもっと推し進めようとするものなのか、あるいは主観を感じる力を回復しようという努力なのか、私にもはっきりしない。
[11/2/93]近さ、遠さということはここで重要である。たとえば、足の痛みよりも、歯の痛みの方が耐えにくいというのは、痛みと自分の間の距離がとりにくいからだ。石ころを主観的に感じるためには、自分が石ころになったところを想像することによって距離を埋めることが有効になる。自分の身体の外側に石の堅い表面とその手触りを、そして内側にはみっしりとつまった鉱物を感じること。そしてさらにそれを徹底するために、自分の身体の視覚像を2〜3メートル先に思い浮かべること。これは認識ということとは違う。主体の変容である。それによってみえてくる世界があるとすれば、それは統一された世界ではなく、いくつもの重なり合った世界の集合である。その豊かさはかぎりない。逆に、たとえ宇宙の果てまで行けたとしても、客観的世界観だけを背負って行ったのでは、部屋の中にすわったままゴキブリに変身して床の上のおいしそうなパンくずを触感するよりも浅薄な経験となってしまう。あえて強弁すれば、人々が旅行に求めるのは、珍しい対象をみることではなく、慣れない環境によって生じうる主体の変容なのである。客体は主体を変容し、主体も又客体を変容する。近代科学的思考法はその後者だけに注目し、前者を無視しようとするものだ。たとえば、目的が手段を正当化するという議論は、手段としての行動が主体を変容し、そもそもの目的を無効にしてしまうことがあるのを忘れていないとできない。
(11/23/93)客観視による同情が可能な領域
足の骨折は客観的にわかりやすいから、周囲から適切な同情と助けを得ることができる。精神の病の場合、まったく同情されないか、気味悪がられたり、見当はずれの扱いを受けることが多いのは、客観化することが難しいからである。精神的なことを客観的にみる視点を作っていく努力はこういう点で重要である。
[11/4/93]足は手段の器官であり、頭は目的の器官である、という違いがある。[11/3/93]で挙げた「個人の欲望の神聖視」という傾向は、その欲望自体が不安定なものであることを我々に思い知らせる精神の病への恐怖を助長する。近代世界の管理者達が精神病者を隔離するのはそのためである。社会全体として、人間の目的が比較的はっきりと公共化されていたヨーロッパ中世では、狂人をただ狂人であるというだけで一般人から隔離する必要はなかった。むしろ、新しい手段の出現が、現在では想像もできないような敵意で迎えられたのである。また、現代では手段が目的を規定している。すなわち、テレビがあるからテレビを見るのである。これは私の想像であるが、多分、中世の人間は人生の目的という話題で大議論を展開するだけの共通の素養を誰もが持っていた。従って、変わり者が普通と違う目的をもって生きていたとしても、そういった規格はずれの目的でも人々のコスモロジーの中で安定した位置を獲得できたのである。しかし、その安定した目的の世界は、手段という下僕の革新によって、たやすく大打撃を受ける弱さを持っていたのである。そして、現代は目的と手段のこの関係がちょうど逆転したと思えばいい。
(11/24/86)客観性を成り立たせている規則の超時間性
「客観性」とは、共通の言語で語りうる、ということだ。あることが客観的にどうである、という記述は歴史性を否定している。「客観性」が成立する背景には、たとえば将棋というゲームの規則にしたがって、ある駒に特定の性質を付与する、という人間の側からの限定がある。すなわち、現象に対する一定の取り扱い規則と、その結果の評価方法の一定性ということがあるのである。
[11/5/93]ところで、この「一定の取り扱い規則」の一部はどうしても言語化をはばむところがある。棒切れの長さを計る、といった単純な例においても、そのやり方を言語で完全に表現することは不可能であり、読む側にある程度の経験がなければならない。もちろん、それは現代工業化社会のほとんどの人間が比較的たやすく獲得できる程度の経験である。しかし、長さを計る、という概念を持たない文化にそのやり方を文書として持ち込んだ場合、解きがたい神秘に変身してしまうのである。あるユダヤ人が「マルティン・ブーバーがいっているようなことはユダヤ人なら10才の子供でも知っていることだ」とけなしたところ、相手が、「そのとおり、10才の子供が知っていることを非ユダヤ人にわかるように伝えるということは、ブーバーの天才をもってして初めて可能なのだ」と反ばくしたという。客観性という概念は、その下層に言語の探針の届かない有機的な不定形の世界を抱えており、ある言明が明白にみえるのは、多くの切り捨てを習慣的に行なった結果なのである。
(11/25/93)客観性を成り立たせている人間の側の永遠性
客観的な世界ではその中の観察者、行為者としての人間は客観視を可能にするゲームの規則を持った入れ物であり、本質的には誰でも等しいものである。
[11/7/93]このことは近代科学的世界観にもとづいて観察し、行動する主体はそのことにより変容を受けるということにつながっている。[11/2/93]の最後に書いたこととパラレルである。ここには、近代科学的世界観に従うということ自体が一つの目的を構成するという暗黙の仮定があるわけだが、特におかしな仮定ではない。さらにいうならば、このような同じゲームの規則を内在化することにより、人々は共通の言葉を持ち、孤立を避けることができるということにもなっている。
(11/26/93)「行動」と「運動」の違いは「目的」
個人の行動の目的は、たとえ意識されていなくても存在する。というよりも、「行動」を記述するに際して「目的」の項はその一部としてあるのである。物理学で物体の動きを論じるときは、「目的」という項はないとして良かったのであるが、人の「行動」を論じるには「目的」をいれた方が良い記述になるのである。
[11/8/93]
個人だって「行動」でなく「運動」すると考えることもできる。実際、生活の中で個人が動くとき、多くの場合は本人の意志にかかわりなく体が動き、たまたま意志通りになることがあったとしても、それは偶然で片付けられるような程度のことであるともいえる。意志がどの程度行動を左右できるか、という問題は、実際問題としては意志でどの程度天候を左右できるかという問題と大差ないのかもしれない。(3/21/88)をみよ。天に意志がないとするなら、人にもないとするのが公平な見方であって、逆に、人に意志を認めるのなら石ころにも認めるべきだ。藤沢令夫の「ギリシャ哲学と現代」では、意志のかわりに「感覚、価値、目的」というホワイトヘッドの言い方が使われている。こっちの方がより包括的な言い方ではある。
(11/27/86)客観的思考を自分自身に向ける可能性
物理学を中心とする客観科学的思考は大きな成功をおさめた。この思考法の特長は、世界の中の目的・意図をすべて考える主体に集中し、いわば世界を脱目的化して見るところにある。自らの目的・意図に何の疑問もないときはこの考え方はきわめて有効である。しかし、いったん自分の目的に疑問を感じ始めたらこれはまったく助けにならないばかりか、破壊的である。もはや根強い習慣となった客観思考の焦点を自分自身にあてれば、ますます自己が脱目的化され、弱くなっていく。
[11/9/93]客観的思考、あるいは対象を純粋に手段としてだけ認める思考法は、その対象が他の人間であるとき、実に破壊的な結果をもたらす。16世紀、アメリカ大陸の原住民の90%は、わずか100年の間にヨーロッパ人の侵略者による酷使(金、銀の採掘など)により死滅したという(ヨーロッパ人が持ち込んだ病気も大きな要因であるが)(参考「戦争はなくならない」謝世輝、光文社カッパサイエンス)。奴隷の使用はその前からあったけれども、奴隷の徹底した非人間化は近代科学的思考と同時代に表面化しているだけに、本質的な関連性が疑われるのである。それ以前の奴隷は、もちろん自由ではなかったが、それでも「感覚、価値、目的」を持つ主体であることは認められていた([11/8/93])。ヨーロッパ、そして後にはアメリカ合衆国や日本も加わることになる、この近代工業化社会が、周囲の文明、文化に対してかくも破壊的であったということは、何かしらそこに本質的な問題があることを推測させる。「感覚、価値、目的」を持たないものとして扱われることが、人間にどういう影響を与えるか。これ以上有害な呪いがありえるだろうか。
(11/28/86)目的は魂の糧である
食物が肉体の糧であるように、目的は魂の糧である。万能の食物というものがないように、万能の目的というものもない。魂は肉体に比べてもっと変化に富んでいる。健全な魂はいろいろな目的を持つことができるが病んだ魂はひとつの特定の目的を強く求めるかもしれない。ある人にとって良い目的も他の人には毒かもしれない。ある目的は一生のものであり、ある目的は一時的なものである。(11/23/86)を参照。
[11/11/93]アメリカでは「Follow your dream」といい、目的を持つことが人間にとって非常に重要であるという考え方が一般に受け入れられている。しかし、目的を持った行動というのは、ある意味でかぎりなく機械の作動に近づいていくものである。すべてのことが目的に沿って配列しなおされる。人間らしい所は最初の目的設定だけであって、後はいかに機械的に世界を処理していくかだけが問題になる。こういう人間を尊敬するというのは、ちょっとおかしいのではないか。[11/3/93]
(11/29/86)目的は発見されるべきもの
主観の科学が提供すべきもののひとつは目的の選択法である。客観科学的思考法では目的というものは本質的にひとつしか設定できず、またこの思考法の領域内からはそもそもでてこない。他の目的はその目的の下位目的として考えられるだけである。また、最終目的が適切かどうかについて議論する方法を与えない。客観科学的思考法においては目的とは恣意的に設定できるものである、という感じがある。主観の科学においては、目的とはすでに存在するものであり、それを発見するのである、という態度を持つ。
[11/12/93]目的の発見というのは、視覚的でなく触感的な過程である。あるいはむしろ内臟感覚といった方がよいかもしれない。外を見るのではなく、内側を感じようとする試みになるからだ。「臨床の知」(中村雄二郎)によればルソーなど、近代の思想家で触感の視覚に対する優位を説いたものは少なくないそうだ。
(11/30/86)手段から目的を探すゲーム
客観科学では目的を中心に手段がめぐる。主観の科学への第一歩として、手段を中心に目的がめぐる、という考え方をしてみる。たとえば、どこそこへ行きたいから電車に乗る、というのではなく、切符があるから電車に乗る、という具合である。あるいは一枚の切符が電車に乗るため以外のどんな目的に使えるかを十通り考えてみる、とかである。
[11/13/93]実存主義的に考えれば、そもその人間の実存の本質としては目的が先にあるのではなく、手段が先にあるのである。我々はこの体を持って生まれてきた。しかし、誰も先見的に明らかな目的など与えられてはいない。肉体的な要求がある程度満たされた状態の人間というのは、極めて複雑な、しかし用途不明の機械である。
(以下しばらくはDescriptive psychologyの直接の影響下で書かれたものなので省略)
(3/19/87)世界を豊かにする方法として、大きく分けてふたつある。ひとつは価値ありとされていることを実現することである。今ひとつは世界の中にあるかくされた価値を見いだすことである。科学の世界でもこのふたつは分れる。前者の例は薬をつくることであり、後者の例はnaturalistの観察である。前者の価値はすでに確立されており、後者の場合そこまで行っていない。しかし価値というものが流動するものであり、すたれるものである以上、次々と新しい価値をみつけていく必要がある。
[11/14/93]かくされた価値を見つける科学としてもっとも偉大な例はファーブルの昆虫記であろう。ファーブルも化学的実験のようなこともするけれども、基本は野外観察であり、また、研究で昆虫を苦しめることに対する倫理的な姿勢も清潔である。彼はいう「私の息子はコガネムシの足に糸を結んで飛ばして遊んでいる。私は研究で虫を苦しめる。どちらも虫にとっては迷惑なことだろう。虫と遊ぶ息子をそっとしておこう。」ここには科学の進歩のためには犠牲もやむを得ない、といった硬直した権威主義はまったくない。
(10/3/87)デカルトは「これだけはどうしても確実」という命題から出発するというが、今日確実と感じたことも明日にはそうでなくなる、というのが我々の生の実感に近いのではなかろうか。また、人と人の間で「確実なこと」でもずいぶんくいちがうのではなかろうか。
[11/16/93]たとえば、気分的な変化だけをとってみても、気分のいいときの世界観と気分のよくないときのとではずいぶん違う。心の地図の中でも、2箇所に同時に存在することはできないのだ。近代合理主義のすごいところは、ある程度一定の世界像を万人に持たせることができるところにある。それはある一定の夢の見方をすれば、その夢の中で他人と出会うことができる、ということが奇跡であるように、やはり奇跡的なことであるのだ。[12/4/93]
(10/16/87)
志向性というのは何らかの過剰の産物では?
[11/18/93]生物として本当に必要とみなされることならば、考えるまでもなく行動に移しているはずだから、意志による選択が可能な場合は要するに基本的にはどうでもいい場合、つまりランダムな行動の余地がある場合ということになる。「過剰」という言葉は栗本氏の用語法に影響されてのことだろう。これはむしろ近代合理主義的な思考、私の用語法でいえば「危機進化論」の範疇に入る考え方となる。主観を重視するというこの断章群の中ではちょっと場違い。
(1/1/88)主観性というものが、頭の複雑さの産物である、というのはおかしな議論。私が「自分」と言えるように、このペンにも「自分」があるはずだ。
(3/21/88)石が放物線を描いて飛ぶのはその石がそう意志するからか?人が山に登るのは彼がそう意志するか?
[11/20/93]人間というのは世界の感覚器官のようなものではないか?なぜなら、石はたしかに脳も口もないから何もいえないが、人は石をみてその気持ちを察することができる。そして、脳が脳自体のみの感覚に閉ざされるが異常であるように、人が人の感覚だけに閉ざされるのもなにかおかしい、というのが私の根本的な疑問である。
(12/22/88)
客観性ということは予測ということと深く結びついている。そして、予測とはつまり選択の余地があるということだ。選択のよちがなまったくないときには予測しても無駄だから。ところで、選択は主体によって成される。
さてここで論理が飛躍するのだが、主観性の科学とは人を選択や予測から解放する科学である。それは破壊的なものとならざるを得ない。社会の至るところにすきまなく張り巡らされている網、人を予測と選択へとからめとる網目をひとつひとつこわしていくことだから。人は予測することによって現在の状況を見失い、選択することによって自分を分割し、弱めていく。
[12/3/93]アメリカでは日本に比べると、この「選択」ということが重要視される。人々は選択する権利のために戦う。主体には自分に与えられた選択肢の中からもっとも良いものを選ぶ強さが期待されている。しかし実際問題としては、選択の幅が広すぎることは人を破滅させる場合も十分にある。急に持ちつけない金を持った人間がたいがい破滅するように。それに行動としてはひとつのものを選んだとしても、気持の上ではそれ以外の可能性にも心が残り、選んだものだけに心を集中するのはむずかしいものだ。
(12/25/88)
松本清張と黒岩重吾という2人の名手による推理小説を続けて読んだ。こうした小説では事実の究明ということが骨子である。事実とは、ここでは一般に認められる世界像に一致する記述ということだ。すなわち、推理小説の役目とは、どんな出来事でも頭を働かせればちゃんと普通の世界像の中に収まるものである、という例を読者に示すことにある。
[12/4/93]中世ヨーロッパの「臭み」がキリスト教にあり、中世日本の臭みが仏教にあるとすれば、現代の臭みはこの「事実への偏執」にある。実際には、日々の現実を客観的事実の因果的なつながりとして解釈するには多大の努力を要し、またそのために切り捨てられる部分が大きいにもかかわらず、人々はそうした「事実」が最初から厳として存在していたかのようにふるまう。これは各時代が持たなければならない世界把握の癖のようなものだ。これがなければ、人と人との間のコミュニケーションが成り立たないのである。[11/16/93]
(12/26/88)
目標を決め、計画を立て、それを実行する、ということの中にある欺瞞。
自由という幻想が我々をがんじがらめにしばりつけている。
[12/5/93]私は子供のころから、計画を立ててそれを実行するということにあこがれながら、一度もできた試しがない。(その憧れは社会の支配的な考え方に影響されてのものだと今は思う。)私の思考は、現在手に触れることのできるものに触発されるのであり、観念的な目標に向かっては働かないのである。絵を描くときでも、まったく計画なしに白紙の部分を少しずつ埋めていく。その一筆で何を描き込むかは、それまでに描かれているものによって影響される。そうして出来上がった絵は私には快いものとなる。しかし、始めには出来上がりのイメージなど全然ないのだ。
現代絵画はむしろ私のようなやり方で描かれているものが多いのではないか。ルネサンスの写実的な絵画と比べるとそういう感じがする。ルネサンスには現実を観念に従わせることへの熱狂の始まりと言える。現代はそれに対する反動の時代なのかもしれない。
(12/30/88)
原子力発電の是非を論じる場合、「確かな事実に基づいて」意見を言うことなど誰にもできはしない。「事実」に頼らず、我々が直接的に持っている印象を元に話をする必要がある。
事実というものは意外に印象の弱いものである。1945年にトルーマンが2発の原爆で30万人を惨殺する命令を下したとき、彼は犠牲者の大部分が非戦闘員であることを事実として知っていた。今年スーダンで25万人が餓死したときかされても、その事実に強いショックを受けることは多くの人々にとってむずかしい。
(2/23/89)1人1人の人間にとって、「印象」こそが現実なのであって、「事実」はあくまで他者との伝達を可能にするためにすべての人々の外に仮構された体系である。事実というものがあんなにも「つじつまが合う」ことを要求するのも、基本的にそれが数学的構造だからである。(12/25/88)を見よ。
[12/6/93]「事実」という言葉はちょうど「科学的」という言葉と同じように、自分の議論を正当化するために使われるかざりになりはてている。
(3/11/89)
「実験信仰」を批判しなければならない。又、「記述」と「事実」もその価値を疑われるべきだ。
[12/7/93]実験で問題なのは我々は決して実験条件が常に同じであることを保証できないということだ。同じ実験を再現しているつもりでも、時と場所が違えば常に何かが異なっており、その何かが実験にどういう影響を与えるかはやってみなければわからないのである。さらに、実験には失敗がつきものであるが、我々はしばしば自分の予測と違う結果が出ると、それを失敗とみなす。従って、実験で確かめたという言明には、言う者がこめようとするほどの重みはないのである。それでも、単純な実験の場合には様々な場所で様々な実験者によって繰り返されるうちに、どの実験条件が重要かが経験的に割り出されてきて、そのうちに非常によい再現性を示すようになる。しかし、そういうふうに結果が収束してくるのはむしろ例外であって、特に医学などの複雑な対象を扱う実験分野では、実験により信頼のおける普遍的な知見を得ることは極めて難しいと言わねばならない。
(1/27/90)
地上は人間であふれかえっている。現代の価値観が人命を他の何物よりも尊ぶということ、そして、その価値観を現実に適用するだけの技術を人間がもっているということの帰結である。人間だけが主体と認められているからである。そして、ある対象が何かの主体を代表しているのかどうかを定めることは非常にむずかしい。というよりもその判断は不可避的に恣意的なものになる。そこに主体が存在するかどうかで、対象に対する扱いが著しく異なる現代社会において、主体の存否の判断基準はきわめて硬直しており、保守的である。しかし、中絶、脳死、人口爆発などの問題に対処するにはこうした基準はあらっぽすぎる。硬直した基準が現実の重みを支えきれなくなって180度転回する可能性は、ナチスのユダヤ人虐殺、米英のドレスデン爆撃、広島、長崎の米による原爆、日本の南京における虐殺、つい最近でも中国の天安門事件、チベットの圧制、米のパナマ侵攻など枚挙にいとまがない。
[12/9/93]野生動物の保護を考えてみても、我々はたまたま目に留まった動物だけを保護しようとする。ある対象が主体としての位置を確立する過程がそこにはあるのである。生物同士の関係は、人間も含めて、何かが死ねば他の何かが生きるスペースが確保されるようになっているので、ある動物の保護は多くの場合、別の動物の大量死を意味してしまう。
[12/11/93](特別引用)
なぜ?人間を信じて、人間とかかわってきたからこそ、僕は今ここにいる、いられるんだ。もし僕が人間とかかわることをやめてしまったら、もう生きてはゆけない。人間誰しもが決してひとりでは生きていないし、また生きられはしないのだ。それなのに最近は、ペットのように人間を愛したり、物に執着する人のなんと多いことだろうか。人類に残された可能性はコンピューターにしかないと言い、ことさら人間以外の、まったく無関係のところで情熱をかたむけている。それだけの努力がまずいちばんに人間を対象にしていたら、どんなに素晴らしかったかわからない。人間が人間にさえ想いをもてなくなってしまったら、そのとき僕たちは、自分自身をさえも平気で傷つけ殺してしまうだろう。(「僕の学校はアフリカにあった」高野生、朝日文庫p37)(下線は私)
(1/29/90)
サンタ・フェの近くのインディアンの学校で教えている教師が、生徒達が道徳的なしつけをまったく欠いていることを嘆いていた、とサンタ・フェに1年住んだ知人から聞いた。
インディアンの多くは古来の文化を失い、西洋文化を身に付けることもできない谷間に住んでいる。肉は生きているが魂は死にかかっている。
その昔、魔女裁判においては、魂を救うために肉体を焼いたのである。それを笑うことは我々にはできない。
[12/13/93]トゥバ・シティでみたインディアンの悲しそうな目は忘れがたい。サンタ・フェでものごいしてきたインディアンの男はとてもとても穏やかで、そしてどんななぐさめもとどきそうもないほどに深い悲しみに沈んでいた。それは黒人のくすぶった怒りとはまったく質の異なる、それだけに強く訴えてくる表情だった。
(2/2/90)
Startrek Next Generationをみていると、エンタプライズ号の乗組員たちは、さまざまな宇宙生物に対して人格をみとめている。たとえそれらがシリコンでできていようと、人工生物であろうと。データのようなアンドロイドも例外ではない。ところで彼らが相手を人格としてみとめるのは相手との言葉によるコミュニケーションが可能になってからである。言葉をしゃべる、ということは人格、主体として認められる大変重要な条件になっているわけだ。となるとイルカの言葉が解読できるようになればイルカも人並みに扱われるのか?コンピュータが言葉を憶えたらどうなるのか?
[12/17/93]
人間の言葉をしゃべらなければ主体として認めないというのは、ずいぶん怠惰な姿勢といわねばならない。これがもっとひどくなると、キリスト教徒でなければ、とか日本人でなければ、とだんだん範囲がせばめられてくる。ただ考え、しゃべるだけでなく、特定の考え方でなければならないということになってくる。
(12/24/90)
ボールダーの近くの山地で小型トラックから野生のコヨーテが射殺された。ボールダー市民は憤激し、犯人発見に対して複数の人から賞金がかけられ、合計4000ドルになった。一方、牧場ではコヨーテ狩は日常茶飯事だそうだ。
殺されたコヨーテは夫婦者のメスの方であり、2頭は近くの住民にしばしば目撃され、親しまれていた。この日も夫婦で道を走るトラックを見物していたところをいきなり射たれた。このコヨーテは主体として認められていたことになる。
このように、動物の場合には状況により、主体として認められたり、認められなかったりする。(もっともこの場合は主体、というより生存権、とでも言ったほうが適切か。主体と認めてもやっぱり殺すというレベルもあるから。)
[12/18/93]
(1/27/90)でも触れたように、アメリカでは妊娠中絶の是非に関してここ数年大きな分極化が起きている。去年だったか、ついに中絶をする医者が、中絶反対派(Pro-life)に射殺されるという事件が起こり、Pro-lifeの親玉は「射殺事件は残念なことだが、これで何百人かの胎児の生命が救われるということを指摘しないわけにはいかない。」という声明を発表した。胎児という対象を、一方は邪魔なゴミとしてみなし、他方は人間とみなす。現行法は中絶賛成派(Pro-choice)に味方するので、反対派は極端な手段に出ることになる。
(12/25/93)
動物を主体として認めれば、殺人の禁止が動物にも広がり、殺生禁断、ということになってくる。しかしそうなると、ちょうど人間が地上にあふれてしまったように、動物もふえすぎ結局大量死につながる。また、死は生物のサイクルの必須の成分である。動物によっては食物を捕殺する以外に生きる術のないものもある。
相手を主体として尊重しながらも、殺す、という態度がありうる。しかしその場合は自分もいつかそのようにして殺されることを受け入れる、という平等感が必要だ。
[12/19/93]
子供のころ、私はしょっちゅう虫を殺していたが、そのうちいつか彼我の大小が逆転してかまきりの怪物に食い千切られる日がくるのではないかと考えていた。殺す以上は殺される身になって考えてみるという程度のエチケットは必要ではないか。殺さない、ということはほとんど不可能だから。
(1/6/91)
複数の人間が集まると、そこにひとつの主体が生じることがある。2人の人間がその場に生じる主体の色付けをめぐって争うこともある。
主体は1人の人間にひとつ、と決まったわけではない。それは観念に近いものだ。(アイドル、王)
[12/20/93]
問題の淵源はデカルトにある。デカルトの提出した世界観には主体は本質的に1人しかありえないので、後はすべて客体となってしまう。したがって、この世界観を持つ2人の人間が出会うと、主体になる権利を巡って争うことになってしまう。主体同士の関係というものは、現代の公的な世界観においてはありえないので、すべて裏道を通ることになる。文学だって99%はデカルトであり、ひそかに付け加えられた1%の接着剤の原料は問われないのである。
(1/7/91)
今日の学校の教育では、主観性とどうつきあえばいいのかをまったく教えない。教えられていることはすべて客観的な対象に関することである。主観性に少しでも近い学問、たとえば人間関係の力学といったことすら教えない。
かつての、たとえば江戸時代の学問の中で中国由来の政治学が学ばれていたのと比べても、これは退化である。
今日では政治学という名がついていても、それは歴史を単になぞるか、制度を説明するだけに終わっている。将棋教室で駒の動かし方だけ教えるようなものであり、実地も実験も何もないのである。
これは教育制度が最下級の労働者即ち読み書きそろばんができて上司のいうことをただきくだけの人間を作るためにできているからに他ならないのか?
[12/22/93]
デカルトの体系では、主体はまったくの自由であり、したがって何も教えることなどないということなのだろうか?